THE MANZAI2001 ブログトップ

中川家 [THE MANZAI2001]

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兄弟はよく父親に連れられて吉本の劇場に行った。礼二は行くのが嫌だったが、電車に乗れるのが楽しくて付いて行った。いつの間にか漫才にどっぷりはまり、花月の最前列で舞台に釘付けになっていた。礼二の初デートはうめだ花月。当時礼二がファンだったのは太平サブロー・シロー。

ともに大阪府守口市立梶小学校及び梶中学校卒業。ちなみに、 松竹芸能の増田英彦(ますだおかだ)は剛の小学校・中学校の1学年先輩にあたる。また、渡辺あつむ(ジャリズム)の弟は礼二と同級生。

その後、剛は大阪府立守口東高等学校を卒業。一方、礼二は近畿情報高等専修学校を卒業。礼二が在籍していた当時向陽台高等学校の提携学校であった為、向陽台高等学校と近畿情報高等専修学校の2つの卒業資格を持つ。

吉本興業の大阪NSC第11期生。同期には陣内智則、ハリガネロック、ケンドーコバヤシ、たむらけんじ等。NSC出身者以外では藤井隆、ココリコ、海原やすよ・ともこ等が同期。

1996年1月、第17回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞。その後、関西ローカル番組「すんげー!Best10」などで人気を博する。

関西以外で知られるようになったのは、2000年頃に出演した「明石家マンション物語」がきっかけ。オーディション企画のコーナー「大部屋」で注目され、準レギュラー出演するに至った。また、「爆笑オンエアバトル」(NHK)では10戦9勝と言う高いOA率を誇った。

2001年末、第1回M-1グランプリでは大本命というプレッシャーの中、初代チャンピオンとなった。その前後に本格東京進出。

現在の若手お笑い芸人ブーム到来よりも数年前に麒麟・品川庄司・次長課長・ペナルティ・おぎやはぎらと共に大ブレイクした。


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2011-08-30 10:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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COWCOW [THE MANZAI2001]

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中学・高校の同級生で組んだコンビ。
コンビ名は、実在していたバンドのCOW COW(COBRAのYO-SUKOとLAUGHIN' NOSEのPONが結成したハウスユニット)から採ったという。しかし、そのCOW COW側から待ったがかかり、一時期コンビ名を『横綱』としていたことがあった。(この「横綱」は、当時山田が好きだった「GARLIC BOYS」の「YOKOZUNA」からとった)その後、COW COWの方から「この名前あげるよ」と言われ、コンビ名を『COWCOW』に戻した。

同期には2丁拳銃、小籔千豊、土肥ポン太などがいる。主に漫才をこなす。多田は独特のギャグを使う。
それぞれピンでもネタを行っている。

1995年、同期のおはよう。等6組の芸人によるユニット「フルーツ大統領」を結成。CDをリリースするなどの活動を行ったが、ブレイクには至らなかった。当時の「フルーツ大統領」参加メンバーの中で、現在もコンビ解散せず活動している唯一のコンビ。

baseよしもとを中心に活動していたが、2001年に東京進出。
ナインティナインと仲が良いことで知られる。一時期『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』(TBS系列、毎日放送制作)に準レギュラー出演していた。また2002年の年末にルミネtheよしもとでナインティナインとライブを行ったことがある。『めちゃ²イケてるッ!』等では、プライベートのエピソードで名前や写真だけが出てくることが多い。かま騒ぎでの岡村ネタの発信源はCOWCOWである。

漫才の終わりなどに多田が山田の右肩の上に左肘をのせ、右手を腰につけながら二人そろってゆっくりお辞儀するのが恒例となっている。このポーズは、彼らが大阪時代にイベントのポスターを作るとなったとき、「70年代の古い格好してポーズを決めよう」となり、インターネットで調べたところ外人が7人くらいで横一列になっている写真を発見し、コレだと思って決めた。

2008年1月30日(水)ヨシモト∞水曜2部MC:POISON GIRL BAND(神保町花月舞台出演の為休演)MC代行を行い、2008年2月1日付でサブ・レギュラー昇進。隔週木曜日1部担当を行う事になった。 
現在定期的にギャグのイベント「秒殺」を開催。秒殺の出演者など、主にギャグを披露する芸人のことを「ギャガー」と呼んでいる。

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2011-08-29 10:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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ハリガネロック [THE MANZAI2001]

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共にNSC大阪校11期生。元「松口VS小林」の松口と元「あっぱれ団」の大上が1995年4月にコンビを結成。コンビ名の由来は、大上がハリガネのように痩せていて、ユウキがロック好きなことから。

心斎橋筋2丁目劇場閉館後、baseよしもとタレントプロデュース組を経て、2002年4月に同劇場を卒業。その後東京本部へと移籍し、活動拠点を東京に移す。現在はルミネtheよしもとを拠点として活動している。

漫才を中心に活動を行っており、悪役ぶるユウキのボケと柔和な大上のツッコミが特徴(一時はユウキがツッコミを、大上がボケを担当していた)。漫才では主に「ぼやき漫才」が多く、ネタ作りは二人で行っているが、ボケを細かく作っているのはユウキ。

また、ネタの最後には大上は普通に礼をするが,ユウキは「THANK YOU!!」と叫んで終わる。また、2001年の第1回M-1グランプリではこの締めの一言を言った瞬間この日一番の歓声が上がり、一般審査員から最高評価の「242点」を獲得、最終決戦進出を果たした。その際、司会の赤坂泰彦に「アメリカンロック」と間違えられ、爆笑が巻き起こった。

結果は1対6で同期の中川家に敗れ、準優勝。表彰式後、審査員の松本人志はクリスマスプレゼントにお菓子入りの小型ブーツを用意。

メンバーは満面の笑みでプレゼントを受け取った。翌年度も優勝候補の一組として決勝進出するが、不利な1番手だったことも影響したのか、後に第10回大会で優勝した笑い飯に逆転され、結果は5位。これが結果的に最後の挑戦となった。

ユウキの目が離れていることから、漫才の冒頭で「眼ぇ離れてましたー」と言うのが定番になっているが、これは関西ローカルの番組「?マジっすか!」で生まれた。


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2011-08-28 22:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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ランディーズ [THE MANZAI2001]

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ネタについては漫才が主であるが、過去にはそのネタ中に大道芸も取り入れていた。2003年夏にbaseよしもとを卒業するまで同劇場を中心に活動、ソロイベント「ランディーズのWA!!」は大阪のほか東京・名古屋でも開催された。

現在はうめだ花月でネタもん・芝居もんに出演したりソロイベントを開催するほか、テレビのレポーターやパネラー、そしてラジオのパーソナリティーとしてもマルチに活動している。

コンビ名の由来は元阪神タイガースの「ランディ・バースのようになりたい」だが、阪神ファンの中川に対し、高井は巨人ファンである。

最近では、演劇活動もしている。TKF (たむらけんじファミリー) に入っているコンビの一つ。若い頃ははちゃめちゃな性格でも知られており、海の家でアルバイトしていた時に、気に入らない客がいるとカキ氷などに唾をかけてから出していたと深夜番組で告白している。

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2011-08-28 10:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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TIM [THE MANZAI2001]

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レッドは3年夏の全国高等学校野球選手権大会、ゴルゴは3年春の選抜高等学校野球大会にてベンチ入りした経験を持つ。それぞれ役者を目指して上京後、たまたまアパートで隣同士になったのをきっかけに意気投合し、1994年コンビ結成。

TIMは「Time Is Money(時は金なり)」を略して名付けた。芸人としてのデビューは遅いため、「時間を大切にしたい」という思いが込められているらしい。

先輩にあたる、ネプチューンやキャイ〜ンなどにはタメ口で接している。本来は、許されることではないが、彼らとおぎやはぎは特別であると土田晃之は言っている。

しかし、雨上がり決死隊と同年代のさまぁ〜ずには何故か敬語で接している。(ゴルゴとさまぁーず、並びに雨上がり決死隊の蛍原は同級生)ちなみに当初のコンビ名の表記は「T・I・M」だったが後に現在の表記になる。

自己紹介の「俺たちTIM!!」を始め、「命」「火(メラメラ…)→炎」「ネ(しめすへん)+兄 → 祝」「シャネル」等、人文字ネタでブレイク。以後、コンスタントに活動している。

ウッチャンナンチャン・さまぁ~ず・よゐこ・出川哲朗・キャイ~ン・ネプチューンらと共にウンナンファミリーと呼ばれている。特にさまぁ~ずの2人と仲が良い。

おそろいのカバンを使うほど仲が良く、さまぁ〜ずの三村に「TIMは本当に仲いいからね」と言われた際、同時に「仲いいですね」「はい」と即答するほどである。また、同じアパートに住んでいた当時はおそろいのベッドを使っていた。

非常にファン層が広く、トークライブ等、TIM関連のイベントには子供から年配の方まで参加している。


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タグ:THE MANZAI TIM


2011-08-27 22:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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フットボールアワー [THE MANZAI2001]

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岩尾は「ドレス」、後藤は「後藤・天満」(後に「エレキグラム」に改名)というコンビを経て、1999年4月「後藤・岩尾」としてコンビ結成。同年5月、当時のうめだ花月シアター(後のうめだ花月)で初舞台を踏み、同年7月にコンビ名を「フットボールアワー」と改める。

由来は、岩尾が読んでいたアメリカの小説の「月曜日のフットボールアワーに間に合わないよ」という科白からの引用。 なお岩尾はこの件について「大した答えが返ってくることはないので、フットボールアワーにコンビ名の由来を尋ねない(で下さい)。聞いた方が損をするだけです、適当に付けた名前ですから」と語っている。その他のコンビ名の候補に「その時 彼女は言った」などがあった。

もともと合同イベントを行うなど友人同士であり、意識し合ってはいたが、同期が次々と辞めていき、それぞれのコンビが解散しても、お互いに自分から組もうとは言い出せず、相手の誘いを待っていた。岩尾は先輩芸人の陣内智則に相談し、「組みたい相手がいるならすぐに言った方がいい」とアドバイスを受け決意するも、「明日言おう」と思っていたところに後藤から電話で切り出され、「別にええけど…」とあくまで上から目線な返事で承諾した。

そのことは岩尾の性格もよく顕れたエピソードとしてよくネタにしている。ちなみに後藤も先輩である次長課長の河本に、岩尾と組みたいと思っていることを相談したが、河本からは「二人とも我が強いのでうまくいかない」と反対されていた。

結成翌年の2000年にはABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を皮切りに、若手漫才師に与えられる数々の賞を総なめにした。

M-1グランプリは2001年大会に結成2年目にして決勝進出するも6位、2002年大会は準優勝、本命と言われた2003年大会で悲願の優勝を果たした。また、2006年大会ではV2を目指して参戦したものの2位に終わった。また、M-1では数少ない予選敗退経験がなく決勝進出率100%の記録を持つコンビでもある(4回出場してすべて決勝進出)。


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2011-08-27 10:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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ロザン [THE MANZAI2001]

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2人は大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎の同級生で、バスケ部で知り合い友人になる。クラスは違ったが、登下校や昼食時などはいつも一緒に過ごしていた。3

年生になった4月、菅からコンビを組もうと誘い、宇治原はそれを快諾した。宇治原が京都大学に合格し、一浪して菅が大阪府立大学に合格した後1996年にロザンを結成。

コンビ結成後は大学に通いながらオーディションに参加(初舞台は1996年8月)。以降12回連続でオーディションに落ちるも、結成から約1年半で合格し、1998年2月に「WaChaCha LIVE Jr.」でデビュー。

同期には、はなわ、バッドボーイズ、りあるキッズ、ドランクドラゴン、ビビる大木、アップダウン、月亭八光などがいる。


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2011-08-26 22:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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くりぃむしちゅー [THE MANZAI2001]

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2人は熊本県立済々黌高等学校の入学式当日に出会い、その後、共通の趣味であるプロレスをきっかけに意気投合。そろってラグビー部に入部し親交を深める。当時の上田はいわゆる学校の番長的存在で、有田はその上田に付いていくような感じであった。

有田は高校卒業後、現役で明治大学法学部二部に合格。浪人が決まった上田から「一緒に早稲田に入ろう」と誘われ、有田は大学に入学せず2人別々の予備校に通う。1年後、上田は早稲田大学教育学部国語国文学科に合格するも、有田は早稲田大学に合格することができなかった。有田は自分と同じように上田がまた浪人してくれると思っていたが、上田から「お前は立教がいい」と言われ、上田は早稲田大学に、有田は立教大学に入学した。

上田は大学を中退。芸能事務所に履歴書を送る日にたまたま久しぶりに有田哲平に会ったことが縁となり、上田は有田を芸能界に誘う。有田も大学を中退。 1991年にコンビ『海砂利水魚』を結成しコント山口君と竹田君の付き人としてスタートする。

1992年から開始したフジテレビ系のバラエティ番組『ボキャブラ天国』シリーズに出演、爆笑問題、ネプチューンら多くの芸人と共に人気を博す。

2001年10月にコンビ名を「海砂利水魚」から「くりぃむしちゅー」に改名。

2004年10月5日、改名後初の冠番組『くりぃむナントカ』が放送開始。

2005年7月5日、改名後初の冠ラジオ番組『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』が放送開始。

2006年7月13日、ゴールデンタイムでの初の冠番組『くりぃむしちゅーのたりらリでイキます!!』が放送開始。


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2011-08-26 10:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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品川庄司 [THE MANZAI2001]

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2人共に吉本総合芸能学院東京校(東京NSC)で出会い、1995年コンビ結成。

コンビ名の由来は単純に二人の名字をあわせたもの。

当初は「オレンジジュース」が候補に挙がっており、ほぼそのコンビ名で決まりかけていたが、決めかけた翌日に「何か違う」「『オレジュー』とか略されるんじゃないか」と考えが変わり、結局「品川庄司」にした。

「品川庄司」という語感からピン芸人、あるいは会社名(品川商事)と誤解されることもある。
略称は一般的に「品庄(しなしょう)」だが、本人達は「かっこいいから」という理由で「ガワジ」と呼ばれたいらしい。

主なネタはしゃべくり漫才。かつてはコントが主だった。ネタの台本のほとんどを品川が作成している。
以前、庄司に漫才ネタを書いて貰ったところ、二人でやるネタなのに登場人物が三人になっていた為、その後はすべて品川が台本を書くようになった。

『爆笑オンエアバトル』にも出場経験がある。通算戦績7戦6勝。第3回チャンピオン大会では自身初、更にチャンピオン大会初のオーバー500を達成しファイナル進出を果たしたが、ボール2個差でルート33に敗れチャンピオンを逃した。

中川家・麒麟・次長課長・ペナルティ・おぎやはぎらと共に現在の若手お笑い芸人ブーム到来よりも数年前(2000年代前半)に売れてしまった為、「自分達はお笑いブームに上手く乗れていない」と発言する事がある。だが、雛壇芸人として活躍しており、ゲスト出演も多い。そのため、決して勢いだけではなく、お笑いブームの中で安定している芸人といえる。

2000年、わらいのじかんの若手芸人のコーナーに出演した際、無名ながらダウンタウンの目に止まり、後日『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』の前説に抜擢された。

M-1グランプリは2002・04年と準決勝で敗退(2001・03年は参加見送)。結成10年目の2005年大会で初めて決勝進出を果たした。若手の登竜門だったM-1にすでに単独ライブや冠番組を多数経験していた人気芸人が出場したのは当時は異例だった。結果は4位で最終決戦進出は逃したものの、審査員の島田洋七から「番組が盛り上がる」、島田紳助から「10年目だけあって稽古量が伝わってきて感動した」と高評価を受けた。


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2011-08-25 10:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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爆笑問題 [THE MANZAI2001]

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日本大学藝術学部在学中に出会い、中退後の1988年3月に結成。
太田は大東文化大学第一高等学校から現役で日本大学藝術学部に合格。

渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会でデビュー。その場で太田プロにスカウトされる。ホンジャマカ、浅草キッドなどと共に「お笑い第三世代と第四世代の狭間の世代の代表」と言われる。

1988年7月頃に『笑いの殿堂』でテレビデビュー。以降順調にレギュラーを増やし、若手芸人のホープとなる。ショートコント全盛の時代に、「進路指導室」「東京の不動産屋」などの作り込まれたコントで注目を集めるが、次第に漫才を主体とするようになる。太田の毒に満ちたボケと田中のストレートなツッコミという正統的漫才で人気を集めた。

1990年に太田プロから独立。しかし、この独立は一方的に辞める形だったため、太田プロの怒りを買うことになり、一時的に仕事がなくなりテレビからも姿を消す。いわゆる干された状態だった。辞めた理由については、自分達のやりたい仕事がしたかったから、人気者となった二人を当時の担当マネージャーが唆した、など諸説あるが、このことについて自ら話したりネタにすることはなく、周りもその話題に触れることはない(2009年にさんまのまんまに出演の際、明石家さんまに「もう一度地獄見せたろか!」と脅された)。

太田はこのことについて、当時は面白ければ仕事がなくなることはないだろうと思っていたと語っている。この時期は、田中は主にコンビニのアルバイトで、太田は妻・太田光代のパチンコやパチスロでの稼ぎで生計を立てていた。太田は暗算が非常に苦手で、レジのバイトをすると客から苦情を言われないようにと釣銭を多く渡す等、まともにアルバイトせず家に引き篭ってファミコン漬けの日々だった。

また、田中が売れ残ったコンビニ弁当を届ける際にも顔を出さなかった。一方、田中はこのまま社員にならないかと声をかけられるほどの仕事ぶりであった。しかし3年間全く仕事がなかった訳ではなく、オムニバスドラマ番組『悪いこと』では脚本(太田)・出演(太田、田中)、オムニバス映画『バカヤロー!4』(森田芳光プロデュース)の中の一本では監督(太田)を務めた。また、営業として数多くの予餞会でネタ披露をした。自称「日本一予餞会に出た芸人」。


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2011-08-24 22:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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