爆笑問題 [THE MANZAI2001]
日本大学藝術学部在学中に出会い、中退後の1988年3月に結成。
太田は大東文化大学第一高等学校から現役で日本大学藝術学部に合格。
渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会でデビュー。その場で太田プロにスカウトされる。ホンジャマカ、浅草キッドなどと共に「お笑い第三世代と第四世代の狭間の世代の代表」と言われる。
1988年7月頃に『笑いの殿堂』でテレビデビュー。以降順調にレギュラーを増やし、若手芸人のホープとなる。ショートコント全盛の時代に、「進路指導室」「東京の不動産屋」などの作り込まれたコントで注目を集めるが、次第に漫才を主体とするようになる。太田の毒に満ちたボケと田中のストレートなツッコミという正統的漫才で人気を集めた。
1990年に太田プロから独立。しかし、この独立は一方的に辞める形だったため、太田プロの怒りを買うことになり、一時的に仕事がなくなりテレビからも姿を消す。いわゆる干された状態だった。辞めた理由については、自分達のやりたい仕事がしたかったから、人気者となった二人を当時の担当マネージャーが唆した、など諸説あるが、このことについて自ら話したりネタにすることはなく、周りもその話題に触れることはない(2009年にさんまのまんまに出演の際、明石家さんまに「もう一度地獄見せたろか!」と脅された)。
太田はこのことについて、当時は面白ければ仕事がなくなることはないだろうと思っていたと語っている。この時期は、田中は主にコンビニのアルバイトで、太田は妻・太田光代のパチンコやパチスロでの稼ぎで生計を立てていた。太田は暗算が非常に苦手で、レジのバイトをすると客から苦情を言われないようにと釣銭を多く渡す等、まともにアルバイトせず家に引き篭ってファミコン漬けの日々だった。
また、田中が売れ残ったコンビニ弁当を届ける際にも顔を出さなかった。一方、田中はこのまま社員にならないかと声をかけられるほどの仕事ぶりであった。しかし3年間全く仕事がなかった訳ではなく、オムニバスドラマ番組『悪いこと』では脚本(太田)・出演(太田、田中)、オムニバス映画『バカヤロー!4』(森田芳光プロデュース)の中の一本では監督(太田)を務めた。また、営業として数多くの予餞会でネタ披露をした。自称「日本一予餞会に出た芸人」。
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