春風亭小朝 [懐かしの『THE MANZAI』]

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フジテレビ『しろうと寄席』で5週にわたり勝ち抜きチャンピオンに。

1970年4月
5代目春風亭柳朝に入門(前座名は「小あさ」)。2番弟子となる。昼間は高校に通いながらの前座生活であった。

1980年5月
真打昇進。36人抜きで話題となる。この記録は2008年現在未だ破られていない。抜いた中には兄弟子春風亭一朝ら、現落語協会幹部役員6人(うち常任理事4人)も含まれる。他にも、師匠柳朝の弟弟子林家九蔵(現三遊亭好楽)、林家上蔵(現3代目桂藤兵衛)よりも先に真打昇進となった。
フジテレビ『THE MANZAI』では明石家さんまとコンビを組み、『オレたちひょうきん族』にもコンビ漫才を披露した。また『ひょうきん族』の姉妹番組『笑ってる場合ですよ!』にて木曜レギュラーとして出演(1981年頃まで)。

1990年10月
空前の一か月連続独演会(銀座博品館劇場)。首都では落語界初めて。

1997年
NHK総合テレビにて『ふるさと愉快亭 小朝が参りました』を担当。出演する若手落語家達のリーダーを務める。
落語界として空前絶後のイベントとして、日本武道館で独演会を開く。


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明石家さんま [懐かしの『THE MANZAI』]

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事務所は吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)所属。オフィス事務所という節税とマネージメントを行なう個人事務所も設けており、仕事やギャラの管理はこちらで行っている。

オフィス事務所には、ラサール石井や村上ショージ、松尾伴内らも所属している(さんまと同じく、皆それぞれに所属事務所は他に存在する)。吉本とは所属はしても契約はしていない。

師匠は落語家の2代目笑福亭松之助。なお明石家の「明石」とは、松之助の本名から貰い受けている(後述)。
血液型B型、干支は未年、身長172.5cm。

若手のころ、兄弟子の五所の家小禄と漫才、コントのコンビを組んだり、花月の舞台ではB&B(島田洋七・洋八)、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんち(ぼんちおさむ・里見まさと)らと、「ビールス7」というコントユニットを組んでいた時期もあった。「アトムスリム」と言う漫才コンビを組んでいた時期もある。

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今いくよ・くるよ [懐かしの『THE MANZAI』]

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明徳商業高校時代、2人共ソフトボール部に所属していた。いくよがピッチャー、くるよはマネージャー。全国大会で準優勝の経歴を持つ。

外見のイメージから、いくよがツッコミ、くるよがボケのような印象を持たれがちだが、実際の漫才では逆でいくよがボケ、くるよがツッコミである。共にドスのきいたハスキーボイスであり、声質は似ている。

太っているくるよと、痩せているいくよが、互いの体型や容姿・ファッションをけなし合うネタをよく演じるが、他人に対しては褒めることはあっても悪口を言ったり笑いに使うことはほとんどない。そのため、老若男女を問わず広いファンを持つ。2人が出会って40年以上経過するが、コンビ仲がとても良いことで有名。

共に独身で、男性を中心に後輩芸人の面倒見もよく、彼女達を慕う芸人は非常に多い。

師匠は、島田洋之介・今喜多代(現:今日規汰代)夫妻(弟弟子にB&B、島田一の介、島田紳助らがいる)。1971年にコンビを結成し、長い下積み修行を経て1973年に初舞台を踏んだが、初舞台以降もスポットライトが当たることがなく、ようやくフジテレビ系「花王名人劇場」に出演するチャンスを得たものの、吉本興業から「これでウケなかったら最後」と通告された。

2人共最後の舞台として全力で演じ、見事大爆笑をとり、2人の漫才はカットされずに全国放送された(このときの他の出演者にはやすし・きよしなどの大御所が並んでいた)。翌日よりテレビ、ラジオその他からの出演依頼が殺到。苦難の末、ようやく本格女流漫才師として日の目を見ることとなった。

漫才では、いくよ「くるよちゃん、そんなとこ(肩)から足出して」くるよ「これは腕やっちゅうねん」。いくよ「私たち高校の頃にソフト部やってまして、私ピッチャーでエース。くるよちゃん、キャッチャーでロース(肉の部位)」。などの持ちネタがある。 他にもいくよの厚化粧をネタに、くるよが顔にファンデーションをはたくような仕草や、漫才途中から必ずくるよの派手で大きな衣装がズレてくるので、すそを何度も持ち上げての漫才をする。

2006年10月6日、「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングで、1984年8月30日(紹介者:田島令子)以来、丸22年ぶりの出演を果たした(紹介したのは友近)。

ダウンタウンの松本人志は、いくよとくるよがどちらか混同するため、「こっちにガーーッて向かってくる方が”くるよ”」と覚えている。(松本出演のラジオ「放送室」より)。ただし、いくよとくるよの名前の由来自体がそもそもそういう意味で付けた可能性が高く、松本独自の覚え方ということでもない。 後輩の面倒見がよく、過去には中川家やレギュラー、ジェットコースター(解散)、ミサイルマン等を食事に誘ったり、ラジオに定期的に出演させたりした。

2009年9月22日、なんばグランド花月での公演中にくるよが引きつけを起こし倒れ、大阪市内の病院へ緊急搬送された。その後検査入院となり心筋梗塞と診断、退院したくるよは12月1日にラジオよしもと むっちゃ元気スーパー!で復帰を果たす。


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佐藤B作 [懐かしの『THE MANZAI』]

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大学在学中から演劇活動に専念。中退後の1973年に劇団東京ヴォードヴィルショーを結成、現在も座長を務めている。また島田紳助とは友人で、彼の番組にも度々登場する。

芸名は佐藤栄作から(A作に対抗してB作とした)。本名は父親が「砂糖と塩」とかけた洒落でつけたという。
以前は三木まうす(現:佐渡稔)と漫才コンビを組んで活動。佐藤B作とジミーハーディー(地味そうだが派手の意味)というバンドを組んでいたこともあった。

衆議院議員の平沢勝栄は出身高校が同じで、B作は3学年後輩にあたる。
女性関係が非常に乱れていた時期があり、妻に「浮気相手のところに一週間だけ家出させてくれ」と頼んだことや、その他のエピソードを島田紳助がネタにすることもある。

2007年12月に行った健康診断で初期の胃がんと診断され、2008年5月1日に手術を行い胃の3分の2を摘出、成功し5月中に退院、その後「渡る世間は鬼ばかり」などテレビ番組で仕事復帰した。

日本テレビ系『行列のできる法律相談所』に出演した際、共演したデヴィ夫人に「B助さん」と言い間違えられた。
2010年8月16日に体調を崩し、三越劇場で公演中だった『香華』を8月19日を最後に公演を途中降板。代役は松村雄基が務めた。
2010年より故郷である福島県のしゃくなげ大使を務めている。


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柄本明 [懐かしの『THE MANZAI』]

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印刷屋の父親の息子として聖路加国際病院で生まれた。父親は、殿山泰司の小学生時代の親友であった。母方の祖父は東京・銀座で箱屋(芸妓斡旋業)を経営していた。

生家が歌舞伎座の裏手にあったこと、映画や演劇好きの両親・家族に囲まれて幼少期を過ごしたことが、俳優を志すきっかけとなる。

工業高校卒業後、商社に就職。だが、俳優にあこがれ、金子信雄が主宰する劇団「マールイ」の演劇教室の生徒となり、同じ教室にいた松田優作と知り合う。

NHKの大道具のバイトをしているうちに、1974年に自由劇場へ参加、俳優として起用されるようになった(佐藤B作、笹野高史、吉田日出子などが当時在籍)ものの、串田和美の作風に肌があわず、1976年退団し、同年に自由劇場時代に知り合った、ベンガル・綾田俊樹らと共に劇団東京乾電池を結成する。

その後、やはり自由劇場時代に知り合った、高田純次、岩松了らが入団。1976年4月~1978年3月頃までベンガル・綾田と『ひらけ!ポンキッキ』のお兄さんを務めたことがある。

特異な容貌と、独特の存在感で、テレビ、映画等にも出演するようになる。

24歳からは下北沢に引越し、本多劇場のこけら落しにも出演、下北沢ザ・スズナリでも活動した。そうした縁もあり下北沢の再開発に反対する住民運動のSave the 下北沢にも招かれている。

1998年、『カンゾー先生』で第23回報知映画賞最優秀主演男優賞や日本アカデミー賞最優秀主演男優賞などを受賞。2004年『座頭市』などで第58回毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。2011年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

1992年、映画『空がこんなに青いわけがない』では監督を務めている。これ以降、監督作は無く産経新聞の「わたしの失敗」で「もう二度とやりません」と語っている。

2006年、NHK大河ドラマ『功名が辻』で親子共演を果たした。『スタジオパークからこんにちは』でゲストとして呼ばれたときには、収録の最中だったのか受け狙いだったのかは定かでないが、豊臣秀吉役の格好のままで登場。その姿で東京乾電池30年の歴史などを語った。

シリアスな演技だけではなく、笑いを呼ぶ演技も得意とする。『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』などにおける志村けんとのコントは息がピッタリで印象深いが、本人は「コントは志村さんとしかやらない」と明言している。コントでは、柄本が強烈な個性を持つボケ役を演じ(婚期を逃した四十路女性、挙動不審なサラリーマン、年増の芸者など)、志村がツッコミに徹する形で笑いを誘発するパターンが一貫して取られている。

2011年6月、紫綬褒章を受賞。

2011年8月には下北沢駅前劇場にて劇団東京乾電池35周年記念公演、「そして誰もいなくなった」作・別役実の出演を控えている。


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海原さおり・しおり [懐かしの『THE MANZAI』]

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1978年2月、「花の110番しおり・ひろこ」というコンビ名で、ケーエープロダクションよりデビュー。それ以前は女優をかじっていた。翌年暮に海原お浜・小浜の小浜に弟子入りし、海原さおり・しおりと改名。

結婚引退が慣例となっていた関西の女性同士の漫才(コント)コンビで、結婚後も仕事を続けた先駆けともいわれる。現在は、漫才だけでなく、それぞれタレントとしても活躍。講演などの活動にも精力的に行っている。短期ではあるが座長公演(2003年)も実現させた。

ケーエー時代に、大阪・なんばグランド花月(NGK)に1989年と2003年に出演したことがある。

1985年、海原さおりは漫才師の大木こだまと結婚。

2005年7月、海原しおりは元競艇選手の夫と離婚(海原しおり 突然の離婚告白… スポーツ報知 2010年2月20日付)。

2009年、コンビ結成30周年を迎えた。

2009年5月、ケーエープロダクションを退社。フリーで活動。

2010年2月19日より、吉本興業に所属。吉本興業所属での初舞台は、2月28日、大阪・京橋花月。


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おぼん・こぼん [懐かしの『THE MANZAI』]

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大阪福島商業高校(現・履正社高等学校)の同級生。1965年にコンビを結成し、学生漫才としてデビュー。上京後、鈴本演芸場や浅草演芸ホール等で活躍。1970年から1980年にかけて赤坂コルドンブルー、日劇ミュージックホール公演などに出演した。

1980年に日本テレビ『お笑いスター誕生!!』にて10週連続勝ち抜きグランプリを受賞。それを機に赤坂コルドンブルーを引退。自分達の後釜として、当時『お笑いスター誕生!!』に挑戦中だった貴明&憲武(後のとんねるず)にコルドンブルー出演を勧める(だがとんねるずは半年足らずでクビになる)。「漫才ブーム」時には『花王名人劇場』(関西テレビ)等に出演。ブーム後も演芸番組等に長く出演した。

近年はテレビの演芸番組や浅草東洋館などの演芸場等で活躍中。

2000年、それぞれの娘が「くれよん」というお笑いコンビを結成。『笑点』では親子漫才を披露したが、こぼんの娘いづみが女優・タレントを目指す事で2002年にコンビ解散。おぼんの娘ちひろは、2004年に妹まいが高校を卒業すると同時に姉妹漫才コンビ「りぼん」を結成し、浅草東洋館などで活動していたが、結婚のため2008年末に解散した。

おぼんは漫才協会副会長、こぼんは漫才協会理事。

キングオブコント2010に参戦。3回戦進出。

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春やすこ・けいこ [懐かしの『THE MANZAI』]

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やすこは中学在学中から松竹芸能タレント養成所の児童部で子役で芝居の勉強をする、けいこは中学卒業後の1973年に松竹芸能タレント養成所に入り同じく芝居の勉強をする、その頃に2人が出会う。

1976年1月にたまたま養成所の漫才部の稽古の風景を見学する事になりそこで会社から組めと言われコンビを結成、同年3月に新花月にて「三橋泰子・出垣恵子」の本名で初舞台。

1977年に海原千里・万里が解散したために「ポスト千里・万里」として期待される。当時人気だったピンク・レディーにあやかって漫才界のピンク・レディーとして人気を得る。

師匠無しでこの世界に入ったため屋号の「春」は当時毎日放送で放送されていた「スタジオ2時」のコーナー名の一部を拝借した。

映画出演のほか、「ハートブレイクホテルは満員」(作詞は糸井重里だった)などレコードもリリースした。1982年けいこは横山たかし・ひろしのひろしと結婚。

1985年6月に長女を出産。これを機に漫才コンビは事実上の解散となった。 その後、やすこは「スチュワーデス物語」に出演するなど女優としても活動し、1990年には実業家の一般男性と結婚した。近年は美容番組「美しくなりま専科」の司会やドラマ、舞台などに出演している。


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星セント・ルイス [懐かしの『THE MANZAI』]

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セントは長野で高校に通っていたころから芸人を志望しており、森繁久彌・谷啓・関敬六といった有名コメディアンにファンレターを熱心に送るような青年だった。その中の漫才コンビ・獅子てんや・瀬戸わんやから卒業後に来るよう返事を貰い、1969年に弟子入り。ルイスはその頃、晴乃ピーチク・パーチクに弟子入りしていたが、1971年に師匠コンビが解散することになったため、てんや・わんやに客分扱いで招かれる。その時、トリオ・ザ・パンチに所属していたセントを引き合わされてコンビを結成。師匠から「セント・ルイス」と命名された。

駆け出しの頃は有楽町の東宝演芸場を本舞台とし、浅草の舞台を修行と割り切るような気概があった。反面、それが表に見えたことで一部の浅草芸人達から嫌われていたという。二人の衣装は揃いのスーツに蝶ネクタイというような伝統的なものではなく、オープンシャツにノーネクタイ、革ジャンやタイトなマンボズボン、頭にはダービーハットといったモダンなものを好んだ。さらにブーツを履いてステージに上がる事が多く、新進の漫才コンビが古臭い漫才師の服装を崩すきっかけとなった。

1977年、ツービートらを抑えてNHK漫才コンクールで優勝。長身のセントが早口でギャグをまくし立て、小さなルイスがつっこむというスタイルで、社会風刺をネタにした独特の漫才で一躍人気となる。

1980年には「田園調布に家が建つ」(「弁が立つ、腕が立つ」に続く韻踏み)というネタで一世を風靡。「花王名人劇場・激突!漫才新幹線」では、やすし・きよしに対抗する東の代表として競演し、漫才ブームの先駆けとなった(もう一組として抜擢され出演したのがB&B)。しかし、その後ブームの仕掛人横澤彪と合わなかったこと等が原因となりテレビの露出度では後退する。そのスタイルは洗練されるがより低年齢むけのお笑いブームでは一線に出ることはなかった。

2003年にコンビを解消。2004年にはセントが、2005年にはルイスが相次いで他界。ともに死因は肺癌であった。 セントが他界したとき、ルイスは「俺を置いていくなんて、大馬鹿者だよ」と発言したが、その8ヵ月後には同じ病で亡くなることになった。

ナイアガラレコードのオムニバスアルバム「Let's Ondo again」で、イーハトブ田五三九(大瀧詠一)が歌う「ハンド・クラッピング音頭」にゲスト出演しギャグを披露している。


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中田カウス・ボタン [懐かしの『THE MANZAI』]

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二人の出会いはカウスがアルバイトをしていたバーの常連客がボタンであった事から。日に日に仲良くなった頃カウスからボタンを誘いコンビ結成。

その後は遊園地やストリップ劇場などで漫才を披露。若手の頃はアイドル並みの人気を博した。漫才師はコンビで揃いのスーツを着ることが定番だった時代に、はじめてジーパンとトレーナーで演じた。

ネタ作りも当時の女子高生にウケるネタを研究して作るなど、若者にターゲットを絞った漫才を発表し続ける。現代では当たり前のように存在するアイドル漫才師のパイオニアと言える存在であった。

漫才・ネタの特徴としては、カウスの、ボタンの私生活や過去を引き合いに出しておちょくる(からかう)ようなボケと、それに対するボタンのノリツッコミ。

様々な舞台やネタ番組でいつもトリを務めており、吉本の頂点に君臨する漫才師である。

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